帰ってきた「閑話ケア」……ときどき「講演旅行記」
第22回 講演旅行記-岡山県 岡山市(通算 第151回)
47都道府県のうち、23番目の講演訪問地は岡山県の岡山市。
個人的にも伺った事がない土地だ。中国地方を中国5県と呼ぶそうだが、2017年2月、全国保健師長会山口県支部からのお招きで山口県にお伺いして以来の中国地方という事になる。
岡山県訪問の布石は2023年4月にさかのぼる。その前月の3月号が雑誌「地域保健」の休刊前の最終号だったが、そこに私はこう書いた。
「2011年1月から、欠かさず読んでいるなんていう方は、いらっしゃるだろうか? 証明のしようはないだろうが、もし、いらっしゃったら自己申告で良いので、相談室にでも編集部にでもご一報下さい。何らかの形で御礼をしたいと思う。ん? 全部じゃないが50回以上は読んでいる? うんうん、そんなあなたも、是非ご一報下さい。何か御礼を考えます」
それをお読みになった岡山市のTさんが、4月に相談室の「お問い合わせフォーム」に、次のようなメッセージをくださったのだ。
「私は平成8年に保健師として現在の職場に就職し地域保健は毎月職場で回覧されるので愛読してきました。閑話ケアはほぼ毎回読破したと思います。旅行記も楽しく読ませて頂きました。最終回は年度末の引き継ぎが終わってゆっくり読みました。先生からのメッセージはこの3年間コロナ業務と戦ってきた保健所保健師へのメッセージのように思え、紙媒体が終わるのが寂しい気持ちになりました。長い間の執筆お疲れ様でした。そしてありがとうございました」
誌面での呼びかけにお応えをいただけるという事は、本当に嬉しい。そりゃね、あっちこっちから呼んでいただいているわけだから、読者がいらっしゃるのは知っている。でも、直接のこういったメッセージはまれにしかないので、本当に読者の存在を実感できて嬉しいものだ。
休刊後に訪問した先の何人かの方に、「私もメッセージ送ろうかと思ったんですけど…」と言っていただいたが、何故か多くの方が、踏みとどまったようだ。
Tさんには色紙を用意して、それをお送りした。今も飾ってあるという事で、恥ずかしい事極まりないが、お送りしてしまったものは仕方がない。
その年の10月29日、この連載の「第5回 講演旅行記-静岡県静岡市・「地域保健」編集部(通算 第134回)」に書いたように、編集部主催のハイブリッド講演会があった。そこにTさんも参加されていて、画面越しに初対面。同様にオンラインで参加していた東京都江戸川区のHさんを含めた交流が生まれた。
それについては「第13回 講演旅行記-東京都江戸川区(通算 第142回)」の最初の方に書いてある。そこにあるように、江戸川区では2024年10月に「組織に翻弄されない『しなやかさ』を考える」と題して話したが、その情報はHさんからTさんに伝わり、Tさんは岡山にも私を呼びたいと思ってくれていたようだ。
そして、2025年4月13日、再びTさんからお問い合わせフォームに
「講演依頼です。藤本先生 とうとう予算獲得し、宿泊費込みで岡山市に来ていただく準備ができました!!️」
という連絡が来た! 時期は秋という事で、10月12日の日曜日と決まった。
面白い事に2023年編集部、2024年江戸川区、2025年岡山市-すべて10月で、人脈的にも繋がりがある展開となった。
前日の土曜午後、浦和での仕事の後に岡山に向かう。14:12東京駅発のぞみ39号乗車、17:25岡山着。ちょうど万博の最終日あたりと重なっていて、東京駅はいつもより混んでいる印象。
岡山駅はそうでもなかったが、駅の土産物屋はかなり混雑していた。着いた途端に土産購入というのはたまに驚かれるが、常温でスーツケースに入れられる物であれば、その方が効率的だからだ。帰る間際に買って、荷物が増えるのを防ぐ事ができる。

外に出るともうかなり暗い。下調べで大好きな路面電車が宿泊するホテルの近くを通っている事を知ったので、その駅を目指して歩く。

早速「桃太郎」だ。桃太郎の話は岡山が発祥地らしくて、土産物にも「きびだんご」関連の物が多くあった。
そして、駅。道の真ん中にある。

「岡山電気軌道」というらしい。

女性の運転士。ここは終点かつ始発駅で、この後、次の電車が来て前をふさぐ。
そして、当然、前の電車が先に発車して、この電車が後を追う形に。
大きな交差点で信号待ち。その後、前の電車は直進して行ったが、私が乗ったこの電車は、右折するのだ。電車ですよ、電車。つまり線路がある。ハンドル操作で曲がるわけじゃない。かといって、路面じゃない電車みたいなポイント切り替え装置も見当たらない。
どうやら、運転士が何らかの操作をして、車内からポイント切り替えをしているようだ。東京に唯一残る都電では見られない光景に、ちょっと興奮。

駅は道の真ん中で、降りてから信号が変わるのを待つ。
ついでに翌日の路面電車特集。

いろいろな色と形が走っていて、

このようにバスや車と共存、

2両連結も走っていた。
翌日、日曜日。午後から講演であるが、例の如く特に準備する事もないので、観光に向かう。
岡山市内で半日で行くとなれば、おそらく誰もが選ぶ場所「岡山後楽園」と「岡山城」が目的地。
岡山を代表するデパート天満屋本店近くのバスターミナルまで歩いて、バスに数分乗車、後楽園前で下車。この日は最高気温29℃。雨よりはマシだが暑さは厳しい。去年の江戸川区の10月も暑くて、このところ、秋と呼びにくい残暑の季節の10月になってしまっている。
歩き出した途端に暑いなぁと思いながら入り口に到着。

ここは江戸時代の大名庭園。パンフレットによれば「岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて貞享4年(1687)に着工」だそうで、一応の完成が13年後。その後、多少手を加えられたりはしたが、姿を大きく変える事なく現在まで来ているそうだ。その後も水害や戦災などがあったものの江戸時代の絵図に基づいて復旧。現在に至る、わけだが…。広い。広過ぎる。暑い中、広過ぎるのには参ったが、まあ、実に見事なものだ。
東京の人間にとっては、東京ドームのお膝元にもう一つの後楽園がある。水戸徳川家の上屋敷の庭で「小石川後楽園」。これも都心の割には見事だが、全体的な規模は岡山の完勝。面積も倍ほどあるようだ。
復興された岡山城の天守が見えるのも、また絵的に素晴らしい。
解説抜きに写真で紹介。





後楽園から見える岡山城が気になりだして、そちらに向かう。
旭川という川向うに天守がある。

黒いからか別名「烏城(うじょう)」

天守台の古い石垣は見事。

見事だが…。入り口がなかなか現れない。ぐるりと裏側の方まで進むと、そこは何かのイベント会場になっていて、ステージや仮設テントなどが設置されていた。

こんなのもあった。

多分、子供が中に入って遊ぶ遊具だろう。なかなかの大きさ。
その少し先を登って行くと、やっと門が現れた。

その先には石が並ぶ一角が。

案内板によると元々の天守の礎石、つまり土台になる石を移したものだそうだ。元々の天守は昭和20年5月に戦災で焼失。昭和41年に元の場所に再建されたが、再建されたものは現代工法によるもので、礎石は必要なくなったわけだが、ちゃんと元通りの配列で並べて保存したそうだ。
そして、天守。

中の案内板はこれ。

御覧の通りエレベーターまであるので現代人にとっては楽だが、やっぱり風情的には残念。
天守の上から見た後楽園、

そして、別の位置から見たシャチホコ。

中にも記念撮影用の物が展示してあった。

展示には色々と工夫があったが、監修が歴史学者の磯田道史氏。NHKの歴史番組などでも有名な先生だが、岡山市のご出身とか。でも、詳細は長くなるので省略。見事な一振りの太刀の写真だけ紹介しておこう。

鎌倉時代の物「雲生(うんしょう)」だそうだ。
次に向かったのは後楽園の入口の向かい側にある岡山県立博物館。

ここにも刀剣が何点もあったが、目を引いたのは瀬戸内海で漁網に引っかかって引き上げられたナウマンゾウの牙の化石。

瀬戸内あたりは平原だったらしく、そこに生息していたらしい。ほかに特別展として「花ござ」の展示があった。イグサのござを染めたもの。明治以降の物らしいが、何点か写真だけ紹介。



この時点で、もうかなりの歩数に達している。午後から講演だというのに暑い中歩き回って、大丈夫だろうか…。
そろそろお勧めの昼食でも食べて、一度ホテルに戻ろう、という事にした。
Tさんお勧めのひとつが「えびめし」で、そのお店は後楽園からそれほど遠くなかったので、歩いて向かう。
途中、岡山神社を発見。岡山に呼んでいただいたお礼参りというような気持ちで参拝。


そして、教えていただいたお店を発見、「えびめし」を注文する。

すると…。

黒いチャーハン? ちょっと触ってみたら、

このようにエビが沢山入っていた。味は、うまく表現できないが、もちろん美味しかった。私は料理にしても酒にしても違いは判るのだが、食レポ的な表現は苦手だ。
黒いのは何だろうなぁ。後でTさんたちに尋ねたが「企業秘密」だそうだ。
一度ホテルに戻り、体制を整え直して講演会場の「岡山市勤労者福祉センター」に向かう。タクシーを手配してくださると言っていただいたが、歩いて行ける距離。暑いので、また一駅だけ路面電車に乗り、そこから歩いて向かう。想像以上に近かったので、かなり早く会場に到着。
会場ではTさんをはじめ、皆さんで準備中。お邪魔かなぁと思ったが、他に行く所もないので、そうっと、入室。すぐに発見される。
「あら~、先生! 早いですねぇ。もう少ししたら、これ持って先生を入り口でお迎えしようと思ってたのに」とTさん。
これというのは、

O保健師が描いてくださった私の似顔絵だった。
似顔絵は、これが2回目。10年ほど前の千葉県大網白里市以来である。
まあ、絵心のある方というのは大したもので、雑誌の写真やwebの写真を元に、本人に会わずともこれほどうまく描けるとは恐れ入る。何なら、遺影の代わりに使えるんじゃないかと思ったが、「岡山」って書いてあるのでそれに使っちゃマズいか。
その後時間になって、お仕事。演題は東京都江戸川区の時のお題をTさんが気に入っていて、それをそのまま借用、「組織に翻弄されない『しなやかさ』を考える」で、お話しした。
原稿がないので同じテーマでも内容はきっと違ったんだろうが、喋っている私が覚えてないので、比較のしようは、ない。
お仕事の証拠写真はKさん撮影のお写真を拝借。私のスマホ撮影と違って本格的な一眼レフ。違い、出るかな。
まずは、N課長のご挨拶があって、

そして、私のお仕事。

終わって、集合写真を記念に撮って、終了。
その後、握手、個別記念撮影希望者がいたりして、まるで有名人みたいな扱いをされる気恥ずかしい場面も。講演先で時々ある。ただの便利なオジサンくらいにしか思っていない地元の保健師には想像もできない光景だろう。私自身としては、そりゃ、そんな風に歓迎されるのはありがたいし嬉しいが、何だか人違いされているんじゃないかと感じてしまい、慣れる事がなく、毎回申し訳ないような気分だ。
タクシーを手配してくださり、一度ホテルに戻る。
18時からの懇親会は、ホテルから歩いて数分の所。掲載について許可を取り忘れたので名前も出さないし、すっかり写真も撮り忘れたが、工夫もあってなかなか美味しいお店だった。シロサバフグのから揚げに始まり、様々な料理。岡山名産という黄ニラの料理もあった。参加者は私以外に12人かな。
ラムネ菓子が入っていたようなマイクの形をした物をおもむろに取り出した若手のTaさんの司会で始まり、どうでも良いような酒飲み話で楽しく過ごした。途中Aさんが2018年3月号の「地域保健」を持参、サインをして欲しいと。何でも、一般の社会人として働いてから保健師という職業を知り、改めて学校に入り直して保健師になったのだと。学生時代から読んで下さっていたとの事で、そのうちの1冊を持参されたわけだ。
大事な本を汚しては良くないといつも思うのだが、ご希望に従い、表紙に一言書かせていただいた。
ところで、サインって、芸能人みたいなサインがあるのかと聞かれた事があるが、あるわけがない。
その場で思った事を書いて、草書体で「藤本」と書くのが精一杯だ。
後半になり、Mさんから、近くに私の好きなウイスキーの店があるから二次会で行かないかというお誘い。5人で向かう事に。何でも、ごく最近お友達の誘いで行ったばかりだとの事。
一次会終了後、3分かそこらで次のお店に。ここも、マスターに承諾もらわなかったからなぁ。
沢山のウイスキーが並んだ店内のカウンターで、色々なウイスキーを皆で分けながらいただく。私はスコッチウイスキーのシングルモルトというジャンルが大好きなのだが、様々なそれらが所狭しと並んでいて、私が知らない物も沢山。

これなんか、かなり高価な物。アルコール度数52.4%だが、柔らかくて飲みやすく、ウイスキーを飲みなれていない皆さんも楽しめた様子。
岡山の2晩目は、こうやって和やかに過ぎていった。
3日目は月曜日。でもスポーツの日なので休日。Tさんのお迎えで、私の歳に近いベテランのOさんも合流し、観光案内をしていただく。最初に現れたのは大きな鳥居。

「最上稲荷(さいじょういなり)」の鳥居である。説明書きによると、昭和47年建立で、当時は日本一の高さの鳥居で高さ27.5mだそうだ。「最上稲荷開山1200年記念事業の一つとして計画されたもの」―などと書いてあったが、その場で読みながら何となく違和感があった。まあ、その場では「へぇ、大きな鳥居ですねぇ」といった感じで次の場所に向かったが。違和感、わかります?
「鳥居」は神社にある。「稲荷」も普通は「稲荷神社」でしょう。しかし「開山」は、寺を創始する事。
後で調べたら、最上稲荷とは日蓮宗の寺で、正式名称は「最上稲荷山妙教寺」なのだそうだ。
いやいや、ビックリ。神仏習合の名残の代表みたいなもの。明治維新で「廃仏毀釈」、つまりそれまでの神社もお寺も仲良しこよし―みたいなのは排除されたのに、ここは、こんな風に大々的に残っていたわけだ。TさんもOさんも、その場ではそんな説明を一切して下さらなかったが、おそらく、岡山県や岡山市の人にとってはあまりにも当たり前で、不思議でも何でもないのだろう。
岡山の皆さん、おそらく全国的にも相当珍しい存在ですよ!
次に向かったのは、「備中高松城址(びっちゅうたかまつじょうし)」。高松城というのは他に香川県にもあったため、備中という地名をつけて区別している。


城の痕跡はほとんどないようだが、戦国時代が好きな人には往時の様子が目に浮かぶような所だろう。
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変、多くの人が知っているでしょう? その時、秀吉がここに居たのだ。信長の命によって毛利方の中国地方の城を攻めていた秀吉、この時は清水宗治というここの城主と戦っていたわけだが、その戦い方がこれまた有名な水攻め。簡単に言うと梅雨時に平らな城の周りに土手を作って川の水を引き入れたのだ。元々が沼地にあって敵が攻めにくい城だったが、その土地の特性を逆手にとっての攻撃。水に囲まれちゃ、食糧補給もできない。


そんな中で本能寺の変が勃発。宗治の首を差し出せば後は許すって事にして、秀吉は大急ぎで京に戻る。これが有名な「中国大返し」。秀吉やその時代を想像すると、何とも言えない気分になった。岐阜県の講演旅行の時の関ヶ原訪問時にも似た気分だった。
中を散策。写真での紹介にとどめる。




すぐ横の宗治自刃の地、妙玄寺にもお参りして次の目的地へ。
―と、ここまで書き終えた時、11月20日に秀吉がこの時に書いたという書状が発見されたというニュースが飛び込んできた。当然、ニュース中に備中高松城や清水宗治の名前も出てきて何だかビックリ。
岡山最後の訪問地は「足守(あしもり)」という所。秀吉の奥さん、北政所「ねね」の実兄の木下家定に始まる備中国足守藩の風情の残る町並みの土地。小藩ゆえに城を持たなかったようだ。
侍屋敷。



ここでは庭で実った柿の実を分けていただいた。
藩主の陣屋跡、つまりお屋敷の跡などを見ながら「近水園(おみずえん)」に向かう。
これ、読めないですよね。「きんすいえん」かと思っていた(;^_^A
前日に行った後楽園とは規模が違うが、これも岡山では有名な木下家の大名庭園だそうだ。紅葉の名所らしいが、この日は暑くて、トンボが飛んでいて、紅葉はまだだった。




ランチのため「足守プラザ」へ。

今回はランチだけだが、陶芸体験などができる観光拠点の一つらしい。
プラザの一角にある「洪庵茶屋」へ。

洪庵と聞いて、すぐ浮かぶのは「緒方洪庵」。種痘の普及で有名な、江戸後期の蘭方医だ。

その洪庵の出身が、ここ足守藩らしい。
私は天ざるそばにしたが、

Oさんの懐石風弁当というのがなかなか豪華で写真を撮らせていただいた。

Tさんからは地元の足守メロンを分けていただく。
のんびり食事をしながらその後の行程を検討の結果、回れる範囲では特にお勧めの所もないらしく、予定を繰り上げて帰る事にする。新幹線をその場で取り直すが、何やら混んでいてグリーンでも空きがなかなかない。それもそのはず、万博最終日だった。何とか取れたのが13:05のぞみ146号。岡山駅まで送っていただき無事に乗車。グリーンも満席で、車内もザワザワしていたが、おそらく自由席は大変な事になっていたであろう。18時前には無事帰宅。
前日と合わせて2万歩以上歩いたのもあるが、グリーン車でも3時間超の乗車はかなり疲れて、やはりトシを感じた。
もっとトシを感じたのは、実は頂戴した絵だった。
後日、額に入れて相談室にもって行き10年前に大網白里市でいただいた絵と並べてみた。

描いた方も違うとはいえ、ホラね、見事にトシを取っているではないか。見事な対比に、思わず笑ってしまった次第。
お呼びいただいた結果、また初めての土地や人に会い、文化や歴史に触れ、冥途の土産がまた一つ増えた。次に伺う機会があったら、飛行機だな。
岡山の皆さま、ありがとうございました(^.^)(-.-)(__)











