WEB連載

帰ってきた「閑話ケア」……ときどき「講演旅行記」

第4回 祝?! 「高齢者」デビュー (通算 第133回)

「敬老の日」があった9月に、とうとう私も、国が定める「高齢者」になってしまった。
65歳。「前期高齢者」である。
「ちょいと、あんた。今日からおじいさんだよ!」
って、国に言われるなんてぇのはどうにも妙な気分だが、ま、仕方がない。
さらにフシギな事に、このタイミングで「高齢者」について話せという依頼が2回も続いた。
ひとつは前回の「旅行記」の山形講演。被援助者としての高齢者だけでなく援助する側にも高齢の方が多いために、その両方について触れてほしいとの事。
もうひとつは、直接的に「地域保健」と無関係なため「旅行記」の対象にならなかった8月の東京都中央区の講演。こちらは、テーマがずばり「老年期の心理」。
老年期なんて専門でも何でもないが、自分が該当者になる身なので、喋れないわけでもないかと引き受けたが、聴衆は高齢者介護の専門家たちだったので、私の方が教えてもらう立場だったような気もしている。


自分の亡父がこの歳だった時の事を思い出してみた。会社勤めだった亡父は、60歳の定年以降はすっかり引きこもり老人となっていて、犬の散歩や近場の買い物以外にほとんど何もしていなかった気がする。
それに比べて今の私は、10年前の自分と何も変わらない日々を送っている。いや、むしろ、何回か書いたように、60歳の誕生日直後からクロスバイクというスポーツタイプの自転車に乗り始めたので、10年前より動き回っているくらいだ。
もっとも、私には定年がなく退職金も無く、国民年金しかないので、生涯働かないと生きていけない可能性もある。よって、亡父のような老後は不可能。だが、それはともかく、亡父の時代からの30年くらいの間で、「高齢者」そのものが、変化しているような気がしている。
いや、高齢者以前に、みんなが若くなってきているのかもしれない。
私が子供の頃、30代や40代は、はっきり言って、すっかりオジサンとオバサンだったと思う。
今はどうだろうか? それくらいの世代は、今や青年と呼んでもおかしくない人が多いではないか。
高齢者になった私から見ればその世代が若く見えるだけじゃないかって思ってもみたが、いやいや、長寿化している社会全体の変化がある気がしてならない。
だってね、「初老」という言葉、いくつを差すかご存じか。本来、40歳の事ですよ。
「還暦(60歳)」とか、「古希(70歳)」とか、長寿を祝うでしょ。そのお祝いの最初が40歳で、その祝いの名称が「初老」だったのだ。第一回目の長寿のお祝いですよ、40歳で。
ちなみに、今回調べて初めて知ったが50歳は「早寿」というそうだ。
「え~! 私も初老?」「わぁ、早寿になっちゃった!」
という声が、あちこちから聞こえてくる気がする。
だが、今の感覚では、初老≒60歳くらいのイメージじゃないだろうか?


自分はともかく、高齢者の患者さんと接していて感じるのは二つのキーワードである。よく言われる事なので私の発見というわけではないが。
「孤独(孤立)」と「喪失」である。
「孤独」は、例えば会社員だった男性。仕事をリタイアする。定年になったら、自由気ままに遊ぶぞって思っていたが…。住んでいる家はもともと生まれ育った家ではなく、通勤を中心に考えて郊外に買った家だから、近所の人とは挨拶くらいの関係しかなく、友達は近くにはいない。帰りに飲みに行こうと誘う部下もいなくなったし、休日にゴルフに誘うのも、会社から離れた今、遠慮がある。
子供がいて仕事がフルタイムではない女性のような場合は、子育て中にママ友が出来たりして、近所に知り合いが出来やすいが、男性同様がっちりと仕事をしてきたような女性なら、同じような事が起こり得る。
「喪失」による「孤独」とも言えよう。上述の例は仕事の喪失による孤独だ。それまであった○○株式会社部長といった肩書の喪失、仕事をやめて役割の喪失。それによって話す相手も居なくなる。そうやって、どんどん孤立した状況が生まれて行く。
勤労者じゃなくても起こる代表的な「喪失」は、親の死、次いで兄姉の死、長年連れ添った配偶者の死。喪失の「喪」は「喪中」の「喪」だから、これこそ文字通りだ。
年齢を重ねる毎に、年賀状のやり取りの相手も減っていく。親戚や友人の訃報も届く 。
加齢による体力の喪失、運転免許証の返納によって行動範囲が狭くなる移動の自由の喪失、そういった事から交友関係の喪失も起こる。
「喪失」によって、生じた孤独は新たな獲得によって埋め合わせる事が出来るか?
新たな仕事を始めれば仲間が増え、取り戻せるものもあるかもしれない。が、ペットの犬が亡くなり、すぐに代わりの犬を飼う。確かに気は紛れるが、本当の穴埋めにはなるまい。
まして、配偶者を亡くしたら、すぐに別の伴侶を―なんていうのはもっと非現実的であろう。

体力の喪失は鍛錬によってある程度食い止められるし、ものによっては強化もできるだろうが、「喪失」全体で見ると、やはり復旧できないものの方が多い気がする。

じゃあ、どうすれば良いのか。援助する側にできる事は何か。
喪失は防げないものがあるのは仕方がない。しかし、孤立によって認知症が進む場合もあるし、何とか、外に引っ張り出す方法はないものか―と、援助者は考える。先の中央区での参加者の話でも、そういった意見があったが、この時は私が少し話した後でいくつかのグループに分かれて、そういった事について話し合ってもらう場が用意されていた。
その結果、こんな感じのまとめになった。
「孤立がすべて悪いわけではなく、望んでいる人もおり、何かあった時のために見守り体制を整える事が大切。客観的には孤独に見えても、主観的にはそうではない場合もあり得る。認知症の傾向があるかないか、またその程度によっても必要な援助は変わるので、その人によって、対応を変えていく事が大事」
うん、良いまとまり方だと思った。
「孤立」は客観的に見た状況。それに対して「孤独」は、当事者の主観的感覚ではないだろうか。「孤立」しているように見える人が、すべて「孤独」を感じているわけではない。感じていない人をデイサービスなどに引っ張り出したら、ある意味、主権の侵害、暴力だ。気をつけないと。


一番大切な対策は、みんなが、自分が高齢者になった後にどう生きるかを早めに考えておく事じゃないかな。孤独がイヤなら、早くからいろいろなつながりを作っておく。同世代以外の交流もあると、きっと良い刺激になる。
そして、活動を続けられるように、体力(身体だけでなく頭も含めて)を維持するようにする。
そんな積み重ねが、多少は人生を楽にしてくれるかもしれない。
不適応な私の場合は、早く孤立したいくらいだが、なかなか許してもらえそうもない…。あぁ……。

著者
藤本裕明(ふじもと・ひろあき)
分類学上は霊長目ヒト科の♂。立場上は一応、心理カウンセラーに属する。自分の所の他、埼玉県川越市の岸病院・さいたま市の小原クリニックなどで40年以上の臨床経験があるが、年数だけで蓄積はおそらく無い。
高齢者になる前、40代半ばから眠りの質やパターンが変わった。休日は昼過ぎまで寝ていたりしたのが、一切できなくなった。50代半ばからは、今度は身体の水分のバランスが変わった。真冬でも裸足でひび割れさえしなかったのに、潤いというものがすっかり減ってしまった。さて、60代半ばの高齢者になって次は何が起こるのか、戦々恐々としている。
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