保健師を語る

「人生を豊かにしてくれた『保健師』という仕事」
松野京子さん

「人間が大好き」という松野さん。多くの人と接する保健師の仕事は、天職ともいえるでしょう。そんな松野さんが語る保健師の魅力、そして行政職としての心がけとは。

2017-04-17

多くの人たちとの出会い

若いころは、前に進むことしか考えていなかった。50歳を過ぎ、残りの勤務年数が一桁になり、後輩保健師たちに何を伝え、何を残していこうかを考えることが多くなった今、過去を振り返る中で自分の思いを拾い集めてみる。
私は、人間が大好きで保健師の仕事を選んだ。振り返ると忘れられない市民の顔がいくつも思い浮かぶ。この仕事に就いていなかったら出会っていなかったであろうたくさんの人たち。その人たちと関わった体験は、自分の人生を豊かにしてくれた。
妻の病状が悪化しているにもかかわらず強く受診拒否している夫のAさん。毎日何回も電話をしてくる認知症のBさん。仕事に困ったときに助けてくれた保健委員のCさん、食推協のDさん、ケアマネ研究会の仲間たち。訪問やリハビリ教室で出会ったたくさんの笑顔……。偶然まちで出会うと、彼らがいまだに声をかけてくれることが何よりうれしい。こんなにたくさんの「人という財産」をつくることができる仕事はあまりないと思う。

行政組織にいる保健師として

保健師は偏った考え方をしている専門家集団だと見られがちである。周りには、そう見ている人もいることを認識して行動すべきだと思う。「保健師として採用されているのだから専門的な仕事以外はしない」などと自分たちで仕事のラインを引かず、臨機応変に対応する柔軟さを持ちたいものである。
「いつまでも現場がいい」と思っていても年齢を重ね、係長職となったときは、新年度に向けて保健事業の企画など順序だてて予算化することを求められるようになる。このとき、地方公務員として必要な基本的な事務力が身についていないと慌てることになる。市役所の仕事は法律が基本になるが、専門職である保健師にとっては苦手な部分でもある。私は、主幹職になったときに法務省自治大学校(東京都立川市)に3か月在籍し、全国から集まった100人の同期生とともにどっぷり法律に浸かる日々を過ごした。そこで地方公務員としての学びを深めるとともに、全国各地の同期生という保健師とは異なるネットワークができた。管理職になった今、このネットワークが先進地の情報を得る窓口として大いに役立っている。

視野を広げる

私は自分が保健師であることを忘れたことはないが、「保健師」という視野がいかに狭いかも感じていて、無意識のうちにそれを補う行動をとってきた。例えば、子育て真っ最中の30歳のとき、藤枝市の姉妹都市であるオーストラリアのペンリス市へ視察に行く機会を得て、渡航前の半年間、週1回の英会話講座を受講したことがある。これはその後の韓国語講座受講にもつながった。こうした仕事とは全く関係ないようなことも、今思えば視野が広がるきっかけとなっている。
今は福祉政策課長で健康福祉部10課の調整監をしている。健康部門にとどまらず福祉部門にも気配りが必要なポジションである。また、思いがけず外国からの看護大学実習生の担当課となった。日常会話の対応などに過去の英会話が役立つ機会がまた巡ってきていることが面白い。

(藤枝市健康福祉部福祉政策課長)

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