保健師を語る

「保健師が輝ける環境を創っていきたい」
廣末ゆかさん

廣末さんは、高知県の中芸広域連合保健福祉課の保健師。中芸広域連合とは、安芸市、安田町、田野町、奈半利町、馬路村、北川村の5町村が一体となって行政サービスを行う仕組み。30歳を過ぎてから保健師としてデビューした廣末さんが語る、保健師活動への想いとは。

2017-03-15

いつかは保健師に

看護学生時代、「看護とは……」と考え込んでしまい、いまひとつ熱心になれない自分がいました。そんなとき、たまたま出席した公衆衛生看護学の講義で「いいわよ、保健婦って。青空看護婦みたいで」という話を聞きました。講師は日本の保健指導者であり、高知県の駐在保健師制度の礎を創り上げた上村聖恵先生(1920-1987)でした。それを機会に、地域での実習に熱が入ったことをいまでも覚えています。「いつかは、保健婦になろう」と思っていました。

制度ありきの仕事に危機感を覚えて

その後、県立病院で看護師として務めたり、大学院に進学したりで、私が保健師になったのは35歳のとき。ちょうど、地域保健法が制定され、高知県では保健婦の駐在制度を廃止し、県と市町村の業務の整理をしている時期でした。介護保険制度も始まろうとしており、さまざまな業務を市町村に移譲していました。
入職したのは人口2,900人、高齢化率30%の過疎地域の自治体で、当時の私は「のんびり保健師をしてみよう」と気負いもありませんでした。ところが、ときは高齢者保健福祉計画の策定時期と重なり、配属されるなり課長から高齢者に係る予算書を渡されました。何をするか命ぜられることはありませんでしたが、書類から事業分析をし始めていることが分かりました。いまでいう一般高齢者施策と要援護高齢者施策に分かれていて、ほとんどが社会福祉協議会へ丸投げ状態でした。保健師が月1回行う十数カ所の地区集会所での健康相談は閑古鳥状態で、ただ老人保健法の名残でやっているとしか思えませんでした。町内を歩いて高齢者の声を聞くと「役場がやってくれるから」と行政依存の状態。元気な住民はほんの一部だけで、行政に届いていない住民の声もあり、軽度の認知症の人たちが増えている等々、福祉の街といわれる割に活気を感じませんでした。私は「このまま介護保険制度ありきで始まっていいのだろうか」と危機感を募らせました。

地域の力をどう引き出すか

そこで、介護保険計画や高齢者保健福祉計画の策定にあたり、お蔵入りしそうになっていた高齢者の悉皆調査のデータを引っ張り出しました。そこには住民の想いが反映されており、多くの住民は「介護が必要になっても、いつまでも住み慣れた地域で暮らしたい」と思っていました。介護保険制度にのみ込まれず、地域にある力をどう引き出すか――ここから、私の保健師としての仕事が始まったように思います。高齢者だけでなく、子育てや障がい児やその家族、障がい者の地域からの孤立も、訪問活動を通して気になりました。いま振り返れば、住民から地域の課題解決に向けた取り組みを教えていただいたのだと思います。
保健活動の醍醐味を知るために、県保健所の先輩保健師のところへ仕事の合間を縫っては何度も足を運び、ヘルスプロモーションや地域リハビリテーションの概念を教わりました。そこから見えてきたのは、個人のセルフケア能力の確立や、地域社会における孤立解消のためには、住民が主体となって社会参加する仕組みが必要ということでした。そのためには保健師が黒子になって仕掛ける必要がありました。保健師になった当初の私の人生設計とは異なり、のんびり構えてはいられない状況でした。地域の課題が山積みでした。そして取り組めば取り組むほど、課題は具現化し、新たな取り組みや仕組みの構築につながっていきました。気が付けば20年の歳月が過ぎていました……。

管理期の保健師として

ここ数年は、後輩保健師たちに保健師活動のノウハウを伝えることにも取り組んでいます。チームで取り組む楽しさを知り成長している姿を見て、とても眩しく感じると同時に、いままで後輩たちに快適に仕事をできる環境をつくってあげられなかったことにも気付かされました。
いま、地域包括ケアシステムの構築が求められ、保健師は周囲から大いに期待される存在となっています。保健師だからこそ、やれることがあります。保健師が一丸となって、自分たちが輝ける環境をどう創っていくか、管理期の私たち保健師の使命だと思います。 
                              (中芸広域連合保健福祉課課長)

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